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私が1番長く、足掛け23年くらい?演奏させて頂いた、
赤坂のレストラン・カナユニでの最初の写真です。

1977年12月のクリスマス頃でしょうか。
このワインラックも灰皿も懐かしい〜!


このカナユニという名前は何?
ってよく質問されます。
これは、
「ハッパフミフミ」などの変な言葉を流行らせた、
大橋巨泉さんが名付けて、
「かなりユニーク」の省略語でそうです!


この頃は華やかな時代の幕開けで、
お店はビルの地下1階ですが、
入りきれないお客様が、
階段に座ってお待ちになったりした人気のお店でした。

私はソロでデイナータイムに出演させていただきましたが、
深夜にはラテンのギターを弾きながら客席をまわる、
エンターテイナーとか、
バンドと華やかなシンガーなどで賑わいました。
(2011 November 27th up)


現在は青山で超一流のジャズ・クラブになった「Body And Soul」の最初の姿です。
六本木交差点脇の小さなビルの3階でした。

戸谷重子さん、堀江真美さん、それに私。
3人の弾き語りの女性がタテバコ(何曜日は誰とタテに決まって出演すること)でした。
私は週1日か2日行っていた記憶があります。

これは1978年の7月となっています。
私にとってはカルチャー・ショックの連続で、京子ママのジャズに対する熱意とか、
ちょっと六本木とは違う雰囲気のお店で、とても勉強をさせて頂きました。

「Body And Soul」の写真は他にも数点ありますので、順次アップします!
(2011 December 5th up)





これも六本木時代の
「ボデイ・アンド・ソウル」です。

1978年9月となっています。

(2011 December 11th up)


西麻布の私の家から歩いて6,7分でした。
京子ママによく、
「あ、保子さん又おかあさんとケンカして来たのね!
目がキラキラしちゃって、ステキよ!」とからかわれました。

母は私が出かける寸前に私を怒らせる名人なので、
その頃は、私も若かったし、
怒ったまま仕事場に到着してしまうので困りました。

この写真もそんなタイミングだったのでしょうか・・・・。


よくいろいろな方に叱られました。
デッカイ目玉で
お客様をにらみつけないで!」って。
↓「無愛想!」って。怖い顔しちゃってね〜・・・・
今だに無愛想かもしれません!スミマセン!

この2枚の写真も1978年9月の
六本木時代の「Body And Soul」です。

この席は入り口から入ってすぐの、
レコードを掛けるブースの脇の席です。


この上の写真の向かって右端に
青いシャツを着て座っている男性は、
開店からいたチーフで、
この数年後、
私が西麻布交差点脇で
「Side By Side」という
ピアノ・バーを経営することになり、
その時点で彼は「Body And Soul」を
辞めていたので、
私の「Side By Side」に
チーフ・コックで来て頂いた高橋さんです。

未来劇場の女優さん羽鳥靖子さんも
ヘルプでお手伝いにいらしていました。
向かって左端です。

この頃、ママは人生の先輩として、
すでにお子さんを抱えてバツイチで頑張って、
新しいお店を始められた訳で、
いろいろ悩んでいた私にアドヴァイスを
して下さったり、激励してくださいました。

「来月からウチはバンドと歌手になるから、
保子さんはサンペイさんのトリオで
歌いなさいネ!」と
強引にプッシュされ、
一時は歌手になりました。


「あのね〜!保子さんなら一人でも大丈夫だから、
そんな男とは別れておしまいっ!
私だってどうにかなってるんだからさ!」、
うーん、その一言が決定的だったかも〜!


(2011 Dec.20 up)


六本木時代の「ボデイ・アンド・ソウル」の
写真が続きます。
1978年12月25日クリスマスのもの。

お客様がポラロイドで
写してくださったものです。

同じジャズ・ピアノ&ヴォーカルで、
当時テレビの「イレブンPM」などで
活躍していた
戸谷重子さんとのツー・ショット。


彼女とはこの頃、
この「ボデイ・アンド・ソウル」とか、
平河町のレストラン「ヴァン・ローゼ」で
ご一緒に、演奏をしていて、
とても個性的なミュージシャンでしたが、
この後結婚されて引退なさいました。

(2011 Dec.25 up)



これも1978年12月の写真です。

ホテル・ニューオータニにあった
会員制クラブ「エルミー」です。 
もう現存していません。

地下のアーケードの脇にひっそりと、
しかし絢爛豪華に存在していて、
正面入り口を通らなくてもアーケードの脇に専用駐車スペースがありました。

  ここでのお仕事はほんの数日でしたが、
     写真は1枚残っています。

  この会員制クラブはとても高級で
  一流企業の社長クラスのお客様が
多かったです。

     それが逆に私達は辛い部分があって、
    それは銀座の一流クラブなどでも同じで、
  ジャズを目指す私に「演歌の伴奏」とか、
    「軍歌」とかで、
私にはとても務まらない所でした。

  カラオケの無い時代には、
そういう「歌伴」がありましたね。
  (2011 Dec.30 up)


1979年の写真

私の元夫だった大矢隆敏氏が経営し始めた、
西麻布の小さなピアノ・バー
「バラード」での写真です。

彼はジャズのテナーサックス奏者として、
ジョージ川口氏のビッグ4などに在籍し、
越路吹雪の日生劇場の公演などに
出演しましたが、
顎関節症があり、引退しました。


そしてこのお店があったビルは4階まであり、
4階では、私の母が
貸しスタジオを始めたりしましたが、
とにかくトラブル続出!
そして私達夫婦も離婚に追い込まれました。


大矢氏はその後再婚し、
別の家庭を持っていらっしゃいますので、
今回のみ公開します。

(2012 1.6 up)


西麻布交差点脇にあったピアノ・バー「バラード」での写真です。
元主人はもちろん一緒にお手伝いをしてくれていた主人の姉も、
全員がシロウトで始めたので、パニックの連続でした。

それまで演奏の行っていたホテル・ニューオータニ「カプリ・バー」、「カナユニ」、「ボデイ・アンド・ソウル」などを、
やむを得ず辞めなくてはならなくなり、「ボデイ・アンド・ソウル」のママの教えに従って昼間はランチ営業をして、
(私と主人の姉は交代でランチのお運びをしたので、毎日ではなかったけれど。)
深夜まで演奏、そして子育てという信じられない状況になりました。

結局すべての無理に無理が重なり、12年の結婚生活は破綻し、このお店も3年程で閉店しました。

(2012 January 12th up)

 
 1979年頃の写真です
1980年の写真です。 1980年2月です。

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